Clavis&Julious Parallel World
王子様、お手をどうぞ
〜1.目覚めの章〜
(c)りりか様「蒼い月の記憶」 2003.5.31
日の出とともに目覚める朝の食卓は、ライ麦のパンに山羊のミルク。
夕餉には元気な雌鶏が産む新鮮な卵と、ニ分の一ポンドの肉が月に2度ばかり。
贅沢には縁遠い、倹しい暮らしぶりではあったが、少年と母親、二人きりの小さな家には笑顔が溢れ、日々幸せに満ちていた。気のいい牧場主の世話になり、日がな一日羊を追いながら、少年は大きくなったら自分も小さな牧場を持ち、たくさん働いて、母親に楽をさせてあげようと考えていた。それが少年の夢であり、目標でもあったのだ。
ある日、丸い地平線の彼方から立派な馬車がやってきて、高貴な身なりの男が少年の家の扉を叩いた。男の話に顔を曇らせ、首を横に振る母の悲しげな顔。真夜中に目覚めて、明かりのついた部屋を覗き見れば、水晶球を前に顔を覆ったままじっと動かない母の姿があった。
少年は不安を募らせた。
数日後、母親は少年に新しい服を着せ、自分の大切にしていた水晶球をその手に持たせた。
「ここにいるより、もっと大きな幸せがあなたに巡り来る。母さんのことは心配しなくていいから、おゆきなさい」
母の星見に間違いはない筈だった。それでも、どんな幸せより母と共に在る幸せを取りたいと少年は温かな胸に縋って泣いた。が、彼女は頑としてそれを認めなかった。
「おかあさん、おかあさん…!」
別れの時、佇んで見送る母親に向かって少年は、馬車の窓から身を乗り出して、泣きながらその名を呼びつづけた。どんな幸せな未来が目の前に開かれていようとも、彼は今はただ、ひたすらに悲しかった…
◇◇◇∽ † ∽◇◇◇
「今日からそなたは、この城のジュリアス王子にお仕えするのだ。
王子はそなたと同い年。されど、わかっておろうな? 国王がなんと仰られようとも、友達と接するのとはわけが違うのだぞ。そなたは王子の従者として、ここに召しあげられたのだ。肩を並べるなどもってのほか。常に影のように一歩引いたところで王子につき従い、お守りするのだ。よいな?」
真っ直ぐな黒髪を肩口で切りそろえ、着慣れぬ正装に落ち着かない様子の少年は、初老の侍従長の言葉を聞いて、紫水晶の瞳にかすかな不安の色を浮かべてコクリと頷いた。
「そう緊張するな。まあ、子どもにこのようなことを言っても無理かも知れぬな。まずは慣れることだ。ジュリアス王子にしても、同じ年頃の少年が側でお仕えするのは初めてだから、さぞかしお喜びになられるだろう。くれぐれも粗相のないようにな。さあ、扉を開けるぞ、クラヴィス…」
天井近くまであるかと思われるような背の高い扉が、ノックとともに重々しく左右に開かれると、真正面の大きなフランス窓から差し込む光が、クラヴィスの目を射た。逆光の中におぼろげな輪郭を認め、クラヴィスは額に手を翳し、目を細めてその姿を確かめようとした。やがてその視界にひとりの少年の姿がくっきりと浮かび上がった瞬間、クラヴィスは心臓が壊れてしまったのではないかと思うほどの高鳴りを感じて、胸のタッセルをぎゅ、と握り締めた。
柔らかな弧を描きながら、白く小さな顔を縁取る金色の髪。
利発そうにきりりとこちらを見据える、蒼い宝石のような瞳。
さくらんぼのように瑞々しい唇、ほのかに薔薇色に輝く頬…
一瞬にしてすべての思考を奪われてしまったクラヴィスは、白いタイツをはいたすらりとした足が近づいてきて、花のように甘い香りが鼻を擽るまで、身動き一つせず、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「ラインハルト、この者は口が利けぬのか?」
一瞬、クラヴィスを険しい目つきで睨みつけたのち、王子は侍従長のラインハルトを見上げて、唇を尖らせた。
「いえ、王子、失礼いたしました。この者は昨日、この城に到着したばかりでございます。もちろん、これまでに従者たる心得についてはひととおり学ばせましたが、慣れぬ城内の空気に気圧され、いざ王子にお目どおりが適うと、緊張のあまり固まってしまったのでございましょう。ご無礼、何卒お許しください。さあ、クラヴィス、ご挨拶を…」
「ク…ク…クラ…クラヴィスでご…ござ…」
あまりのあがりように、紅潮するどころか逆に血の気が引いてしまったクラヴィスは、足はガクガク、手はブルブル。できることなら一刻も早くこの場から消え去りたい気分だった。俯いたままようやく自分の名を告げて、恐る恐る顔を上げると、目の前の王子は先ほどまでの不機嫌そうな顔から一転、人なつこい微笑みを浮かべ手を差し伸べてきた。
「よろしく、クラヴィス…」
その凛とした声と眩しい笑顔に、クラヴィスは腰を抜かしそうになった。差し出されたしなやかで美しい手は、ひんやりと冷たかったが、その手に触れた指先からクラヴィスの心臓めがけて、熱い電流のようなものが一直線に、ビリビリと伝わってくる気がした。
「ではジュリアス王子、のちほどまた、改めまして…」
侍従長に促されて、からくり人形のようにぎくしゃくとクラヴィスが部屋を出て行った後、ジュリアスは溜息をついて、部屋に残った世話係の侍女をかえりみた。
「ずいぶんと礼儀を知らない従者のようだが、私はいずれこの国の王となる身。空のように広い心と、海のように深い思慮でもって、民に接しなければならぬことは知っている。マリー、先ほどの私の態度はどうであったろうか?」
「はい、とてもご立派でございました…」
ジュリアス王子は、満足そうに頷いた。どうやらいささかナルシストらしいが、これだけの自信がなくては、未来の王はつとまらない。ジュリアスはそのまま真っ直ぐに窓辺に歩みよると、レースのカーテンを開けて外を見下ろした。辺り一面、純白のモスフロックスが敷き詰められた石畳の小道を、姿勢の良い侍従長の後について頼りなげに歩く少年の後姿は、ことさらに小さく見えた。
「クラヴィス…か…」
そっとその名を呟くジュリアスは、いつしか自分がその名を呼ぶときに、身悶えるほどの狂おしい思いに、魂まで揺さぶられることになろうとは、まだ知る由もなかった。
従者としてはまだとても役に立ちそうにない子どもを、わざわざ隣国から選んで呼び寄せたのは、他ならぬ国王自身だった。ジュリアスには素振りも見せなかったが、国王は同じ年頃の遊び相手を持たず、子どもらしい感情も示すことなしに、帝王学だけを淡々と身に付けてゆく我が子を、常日頃からたいそう心配していた。そんなある日、国王はお抱えの商人から、隣国に優れた占い師の血筋をもつ少年がいるという話を聞く。早速人を使って調べさせたところ、王子の話し相手としても、従者としても相応いだろうとの結論に至り、早々に召し抱えることにした。ゆくゆくは占い師としても剣の使い手としても超一流になってもらわねばならないが、今、大切なことは、息子・ジュリアスが、教師が教えることの出来ない大切なことを、彼との自然な関わりの中から学び取ってくれること。国王はそう考え、クラヴィスに期待を寄せたのである。
さて、初めて会った次の日から、クラヴィスは朝食が終わるとすぐに王子のもとに出仕し、一日の殆どの時間を彼と共に過ごした。聡明なジュリアス王子の大人びた口調と厳しいまなざしに圧倒されながら、それでもときおり見せる子どもらしい表情に気持ちがほころぶ。礼儀を欠いたり、はっきりと物を言わなかったりすると、たちまちその可愛い唇から、容赦ない叱咤が飛び出し、クラヴィスを悩ませたが、クラヴィスがそれに気落ちして俯けば、とたんに慌てたように顔を覗き込み、少し言い過ぎたと素直に謝る優しさもまた、王子の魅力だった。まだ子どもとはいえ、将来は現国王に勝るとも劣らない優れた王になるだろうという周囲の評判は、そんなジュリアスを間近で見ていれば、わかるような気がした。
月日は流れ、行きつ戻りつではあったが少しずつ確実にふたりの距離は縮まっていった。気弱なクラヴィスがいつ出奔することやら、と心配していた侍従長も、初めてここに来たときより格段と笑顔が増え、精神的にも成長を遂げてきたクラヴィスに、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「どうだ、ジュリアス王子は立派なお方だろう?」
ジュリアス、という名を聞いて、クラヴィスの頬が一瞬にして、ポッと赤く染まった。
「はい。明日は一緒に遠乗りに行こうと誘われました」
それを聞いて、侍従長はかすかに眉を顰めた。
「何? 二人でか…うむ…それは少し心配だな。領地内といえども、何が起こるか分らぬからな。誰か大人をひとりつけることにしよう。時間はいつだ?」
「く…」
問いかけに答えようとしたクラヴィスの脳裏に、ジュリアスに言われた言葉が蘇ってきた。朝の9時に厩舎に来るようにと小指を差し出した彼は、遠乗りは二人だけの秘密だと囁いた。うるさい大人はいらない、そなたとふたりで親交を深めたい、約束だぞ、と。
「じゅ…10時です…」
「そうか、わかった。だが、そなたも常にしっかりと王子をお守りすることを忘れてはならぬ。そう、命がけでな」
「いのちがけ?」
「そうだ、命がけでだ…それが従者の務めなのだから」
クラヴィスは小首をかしげた。難しい言葉はよくわからない。何しろ、これまでの人生の中で、命懸けで何かをしたことなど一度もなかったのだから。部屋に帰ったら辞書を引いて調べよう。生真面目にそう考えたものの、そのあとの様々な雑事に追われて、一日が終わる頃には頭の中がとっ散らかっていた。
「いの…じかけ…? いろ…ちかげ? なんだったかな・・・?」
パラパラと分厚い辞書のページをめくる指が、ぴたりとあるページで止まった。
『色仕掛け…目的を遂げるため、容色や色情を利用して相手に働きかけること』
ようしょく? しきじょう? まるで意味がわからなかった。
それでも、クラヴィスは、”色仕掛け”でジュリアスを守らなくてはいけないことだけは、しっかりと胸に刻み込んだ。
「侍従長さんには嘘をついちゃったけど、そんなに遠くに行くわけじゃないから大丈夫だよね」
ベッドに入っても、クラヴィスはなかなか寝付けなかった。
難しい書物を読んでいるときの、知的な横顔。
わざと人を困らせては笑い転げる、悪戯な瞳。
ふとした瞬間に見せる、無邪気な仕草。
初めて会った日にまるで人形のようだと思った端正な顔は、驚くほどたくさんの表情を隠し持っていた。それらがぐるぐるとクラヴィスの頭の中を駆け巡る。明日は二人きりで、丘の上から美しいローレシアの町並みを眺めるのだ。きっともっと仲良くなれる。
「ジュリアス王子、おやすみなさい…」
幸せな気持ちに包まれて、クラヴィスはそっと目を閉じた。
翌朝、約束通り9時に厩舎に行くと、ジュリアスはもうやって来ていて、舎人となにやら話をしていた。
「おはよう、クラヴィス!」
上手く誤魔化したのだろう、年若い舎人は他にお付きがいないことをなんら疑う様子もなく、二頭の馬を表に繋いだ。
「この国へ来て馬に乗るのは初めてか? 大丈夫、この馬は大人しいから心配はない」
舎人に見送られて、二人は馬を並べてゆっくりと城をあとにした。侍従長に見つかったらどうしようとびくびくしていたクラヴィスも、城を一マイルほど離れた頃にはようやく気持ちも落ち着いて、胸を張って馬の背に跨るジュリアスの、気品に満ちた姿をうっとりと見つめていた。やがて丘の上にたどり着くと、ジュリアスは二頭の馬を近くの木に繋ぎ、クラヴィスの手をとって見晴らしのいい斜面に向かい、南の方角を指差した。
「どうだ、美しいであろう?」
レンガの赤に混じって、湧き上がるように点在する緑の梢や、町の中央にそびえたつ古びた時計台。そしてその脇を通ってゆるやかなカーブを描きながら、町を二分する澄んだ川…。絵画を見るように美しく、豊かで平和なこの風景は、ジュリアスの父である国王の手腕と人徳を象徴するものといえた。町を見渡すジュリアスの晴れやかな横顔を見つめながら、クラヴィスは、彼にとってもここから見える風景は誇りであるのだろうと思った。しばらく景色を眺めた後、ふたりは地面に並んで腰を下ろした。心地よい風に吹かれ、ジュリアスが髪を掻き上げると、指のあいだから零れ落ちた金糸の束が、キラキラと光を弾いた。クラヴィスがそれをうっとりと眺めていると、しばしの沈黙の後、徐に口を開いたジュリアスは、少し意外な話を始めた。
「私の周りにはこれまで大人しかいなかった。何をするにも先読みして居心地のよい環境を整えてくれるのは、楽ではあるがそればかりではつまらない。王になるための勉強は楽しいしやりがいもある。でも私はもっと知りたいことが他にあるのだ。たとえばこの景色…私はここから見るローレシアの町並みしか知らぬ。そこで民が何を喜び、何に苦しんでいるのか。血が騒ぐような熱い想いや…張り裂けそうな胸の痛み。そんな書物でしか知ることのない感情を、私も早く知りたいと思う。そなたは今までに、きっと私より多くのものを見てきたのだろう? これからは私に少しずつ、そのようなものを教えてほしい…」
王子が、従者に向かって教えて欲しいなどと…クラヴィスは嬉しくて胸が熱くなった。国王が心配していたことを、この聡明な王子は言われるまでもなく、自ら感じ取っていたのである。
———僕なんかに教えられることがあるというのなら、何でも教えて差し上げよう。色仕掛けで精一杯お務めするようにと、侍従長さんにも言われたもの……
自分が真に守るべきものは何なのか。かつて、母親に対して抱いたものと同等の大切な気持ち。クラヴィスは自分の進むべき道が、この瞬間、初めてはっきりと見えた気がした。
守護本能に目覚めたクラヴィスが、その誓いの言葉を伝えようと、寛いでいる王子を振り向いた時、背後の叢で、とぐろを巻いている大きな蛇の姿が、彼の視界の隅に飛び込んできた。三角形の頭をもたげ、赤い舌をチロチロと出すグロテスクな姿…毒蛇に間違いなかった。蛇は今にも飛びかからんと、ジュリアスを狙っているように見えた。
「どうした?クラヴィス…?」
真っ青な顔で一点を見つめるクラヴィスを訝り、振り向こうとしたジュリアスをクラヴィスが無我夢中で庇ったのと、蛇がシュッという嫌な音を立てて飛び掛ってきたのは、ほぼ同時だった。その時のクラヴィスの行動は、まさに本能といえた。
「……っ……!」
一瞬何が起こったのか分らずに、自分を強く抱きしめるクラヴィスの腕を引きはがそうとしたジュリアスは、その首筋におそろしい蛇が食らいついているのを見て、悲鳴をあげた。蛇はすぐにクラヴィスを離れ、叢に逃げ込んだが、クラヴィスは痛みのせいか、う…と小さくうめいてジュリアスの膝に崩れ落ちた。
「クラヴィス! クラヴィスッ! しっかり…しっかりして…っ!」
ジュリアスはすぐにクラヴィスをそばにある太い木の幹にもたれかけさせ、服のボタンをはずして胸を寛げ、首を露出させた。そこにはくっきりと、蛇の噛みあとが残っていた。顔面は蒼白になり、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「高襟の厚みがあったのが幸いした。毒はそれほど入っていない筈…!」
ジュリアスは躊躇うことなく、傷口に唇を寄せた。
「だ、だめ…!王子…そんなことをしたら毒が王子に…!」
驚くクラヴィスの腕を、抵抗するなとばかりに強く掴んで制したジュリアスはもう片方の手でクラヴィスの襟足を支え、、傷口を強く吸っては血液混じりの毒を吐き、また吸う、という動作を懸命に繰り返した。ジュリアスの乱れた息遣いが、掠れたクラヴィスの思考の中で、夢の中の出来事のように遠く近くにこだまする。長い睫の下の蒼の瞳は、うっすらと涙に揺らめき、不安と必死に闘っているように見える。朦朧とするクラヴィスにとって、毒蛇にかまれたことなど、この際どうでも良くなってきていた。首筋に感じるジュリアスの熱い唇。強く吸い付かれるたびに胸は高鳴り、全身の血がそこに集まってくるように思う。いつも顔を寄せてくるときよりも、もっと魅惑的な甘い香りが立ち上ってくるのは、ジュリアス自身が生まれて初めての危機に直面し、緊張と興奮で汗ばんでいるからなのだろう。
美しい人は、香りも官能的なんだ…
官能的、などという言葉を年端の行かない少年が知るはずもなかったが、そのときクラヴィスの心に芽生えた感覚は、そういうことだった。彼は自由な左手を、おずおずとジュリアスの背に回そうとしたが、ジュリアスが身を立て直すのを感じて、慌ててその手を引っ込めた。
「とりあえずはこのくらいで大丈夫だろう。だが直ぐに城に帰って傷口を洗い流し、消毒せねばならぬな」
顔を上げたジュリアスは、レースの縁取りのハンカチを取り出して口元を拭いながら、ホッとしたようにクラヴィスを見たが、その表情を見て思わずごくりと喉を鳴らした。
未だかつて、自分をこんな目で見た相手は一人としていなかった。
蕩けるように甘く、それでいて情熱的で真剣なまなざし…。
光に透けて紫に色を変えた瞳が妖しく揺らめき、それがジュリアスの心を激しく揺さぶった。
目で犯す、そんなふうにしか言い表しようのない視線を投げられては、純粋培養の王子はひとたまりもない。熱に浮かされたようにゆっくりとクラヴィスの唇がほどけ、吐息に絡め取られた言葉が、自分の名を呼んだのだと気づいたときには、ジュリアスは彼の胸の中に引き寄せられていた。そしてそこに感じた彼の鼓動の早さに、彼は今、ふたりが置かれている状況を、すばやく理解した。もはやそこに躊躇いなどなかった。頬を染め、黙って目を閉じるジュリアスを見て、突き上げてくるような衝動に抗えず、クラヴィスは彼の顔を両手で包み込むようにして、夢中で桜色の唇に自分の唇を押し当てた。勢いが余って互いの歯が触れ、カチリと小さな音を立てる。
「ん・・・ふ…・・・」
震える両手でジュリアスを抱きしめ、このあとどうすればいいのかわからないまま、重ねた唇を、小さく音を立てて吸うと、クラヴィスの袖を握り締めているジュリアスの指に、力がこもるのが感じ取れた。押し付けた唇をおそるおそる滑らせて、髪を優しく梳けば、ほどなくジュリアスの口端から甘い声が漏れだした。その溜息のようにかすかなサインを受けて、己の不器用な愛撫に不安を感じていたクラヴィスに、急に自信が湧いてきた。
———間違ってはいないようだ…
そのまま唇を唇で食むように動かし、甘噛みした。口付けながらその形を確かめるように舌を滑らせ、興奮に息を弾ませながら、角度を変えて何度も吸い上げる。ジュリアスの唇は温かく、柔らかく、甘い香りがした。それはまるでずっと焦がれていた、禁断の果実のように。
「ん…ン…」
興奮していたのはジュリアスも同じだった。大人しくて泣き虫なクラヴィスの内に秘められていた想像もしなかった素顔に驚き、初めてとは思えないほど、積極的に攻めこんでくる激しさに刺激されて、最初は戸惑っていた彼も、いつしかクラヴィスの首に腕を絡めるようにして、ぴったりと体を密着させていた。
王子の悦びは従者の喜び。
ジュリアスの望みを敏感に感じ取ったクラヴィスは、自分が彼に求められていることに感激し、天にも昇る心地がした。
———王子が気持ち良いと感じることは、なんでもしてあげたい。そうすることが僕の務め…
自分はきっと、それを容易く王子に与えることができる…
間違った自信から、すっかりのぼせ上がったクラヴィスは、口づけながら、背中に回した手を下方に滑らせ、柔らかな双丘を撫でまわしてみた。熟練したエロ親父のような仕草にも、ジュリアスは敏感に反応し、上気した顔で「あふん」とか喘ぐものだから、クラヴィスはますます調子付いて、「感じてるの?」などと耳元で、さりげない言葉攻めをしてみたりもした。従者クラヴィス、その恐るべきDNA…。
暫く執拗に唇を貪りあった後、クラヴィスはゆっくりとジュリアスの体を草の上に横たえた。ここまできたら、もうためらうつもりはなかった。いつもは気丈なジュリアスが、されるがままに身を委ね、羞恥に固く目を閉じる様子がたまらなく可愛い。はやる気持ちで震える指を、彼の着衣の合わせ目にかけたとき、彼は潤んだ瞳を開け、小さく声を上げた。
「……ならぬ…クラヴィス…このようなことをして…は…」
精一杯の照れ隠しの言葉は、本人が意図する以上の効果をあげてしまったたらしい。そのぞくりとするような甘えた声と、艶かしい視線を受けて、『イケナイコトヲシテイル』という淫靡な昂ぶりを感じたとたん、クラヴィスの体は大きくビクンと跳ねた。
「あ……」
……イってしまった…。
「……?」
「…… …… ……」
クラヴィスに罪は無い。罪があるとすれば、それは色っぽ過ぎた王子のほうである。
しかし、このときの屈辱をクラヴィスは生涯忘れることが出来ないでいる。彼の絶倫の原点は、この時の失敗にあったといって過言ではない。彼は以後、自らのなかに精力増強のスローガンを掲げ、王子を色仕掛けでお守りするために日夜努力を重ねることになる。人に歴史あり、とはこのことだ。愛って素晴らしい。
「クラヴィス…?」
弾かれたように立ち上がったクラヴィスは、そのまま唇を噛み締めて、繋がれた馬の元にそそくさと内股で駆け寄った。
蛇に噛まれた傷が痛んだのだろうかいう心配と、夢うつつで自らが犯してしまった甘美な過ちに罪悪感を覚え、ジュリアスも言葉をつまらせたまま、クラヴィスを追って馬に近づいた。
クラヴィスは、俯いていた。
「ジュリアス王子…ごめんなさい…」
それを聞いて、ジュリアスの頬がぴくりと動いた。
「何を謝るのだ…」
「だって僕…」
「言うなッ! 謝られると…私まで居たたまれなくなる!」
ほろ苦いファーストキスの思い出だった。
クラヴィスは、「ダメだ」というジュリアスの言葉を拒絶だと思い込み、高貴な身分の王子の唇を奪うという自分の恥ずべき行為に恐れ慄いていた。しかも、その思いに反して嫌がる王子を無理矢理(ではなかったのだが)に蹂躙したことにぞくぞくするような暗い悦びを感じて、自分勝手にのぼりつめた挙句、ひとり果ててしまったことに、なけなしのプライドが傷ついて、激しい自己嫌悪を覚えていた。『嫌よ嫌よも好きのうち』という先人の格言など、クラヴィスが知るはずはない。一方ジュリアスは、生まれて初めてのときめきを感じて身を任せた相手が、あろうことか身分違いの従者であり、しかも同性であったことの後ろめたさに、身も縮まる思いがしていた。それでもいわゆる背徳の悦びとやらに打ち震え、優しい言葉を待っていたところに、まるで口づけたことを悔いるような詫びの言葉。こちらもプライドの高さときたら五つ星。欲しかったのはそんな言葉ではなかったのにと、顔を紅潮させて、絶望と怒りに拳を固く握り締めたのである。
城門の脇に仁王立ちになり、嘘をついて遠乗りに出かけたことを叱るつもりで待ち構えていた侍従長は、しおれきったクラヴィスと憮然としたジュリアスを見て驚き、何があったのかと尋ねた。
「私がクラヴィスに、二人きりで行こうと誘ったのだ。クラヴィスは私の命令に従順だったまでのこと。咎めてはならぬ…。」
ジュリアスはそれだけ言うと身を翻し、早足で城に戻ってしまった。
「喧嘩でも…したのか…?」
心配そうに尋ねる侍従長に、クラヴィスは力なく首を横に振った。
———喧嘩なら仲直りできる。でも僕は王子を汚しちゃったんだ
こんな殊勝な心がけも、その後開花する己の旺盛な性欲の前には戯言にしかすぎなかったということを、クラヴィスはこののち、嫌と言うほど思い知ることになる。
突然によそよそしくなってしまったふたりの関係に、周囲の者は驚き戸惑い、嘆いたが、王子の従者が代わる事はなく、クラヴィスとジュリアスの最低限の関わりは、保たれていた。しかし、その胸に去来するものはいつの日も、触れ合った唇の熱さと、泣きたいほど恥ずかしくてそれでも何故か愛しいあの日の記憶。
———ここにいるより、もっと大きな幸せがあなたに巡り来る…おゆきなさい
時折交差する視線、触れそうで触れぬ指先。そのもどかしさの正体がなんであるのか気づかぬままに、二人は思春期という名の朝靄の中を、手探りで歩き始めたのである。
To be continued